序文
  (開眼〔かいげん〕立教の経緯)


 密教入門といっても、これは弘法大師に始まるという「真言密教」の解説書でもなければ、またチベットや印度等諸外国に現存するという密教を含めた「密教一般」についての入門書でもありません。
 既存のいかなる教えとも現実的に無関係に、始めてこの日本に出現した新しい教え「神自らの教え」なる「大元密教〔だいげんみっきょう〕」の手引き書である事をまずお断りしておきます。
 大元密教〔だいげんみっきょう〕は「神自ら説く秘密の教え」であるだけに、教主
小島大玄尊師の開眼〔かいげん〕立教の経緯〔けいい〕もまた、極めて神秘な現象をもって彩〔いろど〕られております。
 尊師の御著「立教示帰〔りっきょうしき〕」に詳〔つまびら〕かなように、昭和二十七年十月十五日午後二時、尊師は偶然の様に導かれてある感応力ある婦人の許に到り、対座中、両手が自然に動き出して
慈悲説法印を結ばれ、しばらくして、次ぎに法界定印〔ほっかいじょういん〕即ち禅定印〔ぜんじょういん〕を結んで禅定〔ぜんじょう〕に入られると共に、「われ汝等を済度〔さいど〕せん」と宣言せられました。この間数分にしてもとの御自分に立ち帰られたのでありますが、この時、同座した神戸、布引山瀧勝寺〔ぬのびきざんりうしょうじ〕の住職東山諦恵〔だいね〕師もその婦人も、この結印禅定に入られた尊師の、金色燦然〔さんぜん〕として光り眩〔まばゆ〕いばかりの神秘荘厳なお姿を拝して、ただ有難さに感激の涙溢れさせつつ、思わず声もなく打ち伏して、合掌礼拝を繰り返すばかりでありました。
 ちなみに、この婦人は二年六カ月前から「偉大な方が世を救う為に現われる」という神示を受け、またこの日から遡〔さかのぼ〕って四十日前からは、神により足止めをされて一歩も外に出して貰えず、ただこの日の来るのをお待ちしていたということでありました。
 この開眼の日を境に、これまで五十余年の大半を実業人として過ごして来られた尊師の運命が大きく変ることになったのであります。
 その後、ある時。尊師は寒中深夜二時、神示によって起床、寝所に夜着一枚で端座されること二時間づつの深夜行を始められ、この間諸々の神々や仏菩薩〔ぶつぼさつ〕が姿を現わされ、入れ代り立ち代りして、諸象諸々〔しょしょうもろもろ〕の教えを説〔と〕かれたのですが、尊師はただ端座〔たんざ〕不動の姿勢で、これを聴いて否定する説に首を振り、肯定〔こうてい〕する説に頷〔うなず〕くといったことが十四日間続いたのであります。
 その後一年程してから、夜毎無量無数の神々、仏菩薩を前にして説法される現象が絶えることなく続いた。これは人間的意志によってどうなるものでもなく、意識する中に無意識なるものがあり、無意識の中から出る意識による現象であって、実に語調明瞭、論理整然として、説く尊師とそれを自ら聴く尊師が、別人の様な感じの中から教義が明示され、尊師御自身、まことに不思議とされたのでした。想うにこれは、人々を前に説法を試みる前に、神々、仏菩薩を前にして説法されたものである。
 しかしそれでも、尊師はまだ教えを説く確固たる信念と大きな自信が持てず躊躇〔ちゅうちょ〕されておられた時、ついに次のような神勅を蒙〔こうむ〕られたのであります。
 「汝親も無く、子も無く、ただ無量なる汝あるを知れ。その無量即ち我なればなり。故に汝応化〔おうげ〕なり。依って我が教えの前に、帝王なく、高位高官無く、又富者貧者の区別無く、多くの門人を伴い万有を導く使命あるのみ、速かに結定〔けつじょう〕すべし」
 ここにおいて尊師はいよいよ教えの座につく決心覚悟〔かくご〕を定められ、昭和二十九年八月十五日、曼荼羅(マンダラ)をかかげ立教を宣言せられたのであります。
 その直後、尊師はまことに神秘にして神聖な境地を体験され、それを尊師自ら次の様に記しておられます。
「我れ禅定に入り、身は三昧〔さんまい〕に住し、
涅槃会(ねはんえ)に入る。中央台座に静かに座し、即身成仏〔そくしんじょうぶつ〕の極地たる神人一体の境に入りたり。この時諸々〔もろもろ〕の神々、仏菩薩静かに前に進み、一礼して左右両側に分れて列座す。二人の童子供物〔くもつ〕を捧げて我が前に現われ、飲食〔おんじき〕を供〔そな〕え三礼して退〔さ〕がる。その時、我が両眼より涙静かに垂〔た〕る。一人の神徐〔おもむろ〕に立ち、我が右眼より流るる涙を手に受け、宙〔ちゅう〕に散ずるに光を発して無数の珠玉〔しゅぎょく〕と化す。又一人の仏、同じく左眼より流るる涙を手に受け、宙に散ずるに華雨となる。この時大衆こぞってこれを手に受けて、或は口に吸い、或は顔に、或は体に塗りたるに、皆純白の宝珠光背〔ほうじゅこうはい〕を背負い、清浄無垢〔しょうじょうむく〕なる姿と化したり。ここで一同合掌礼拝し終るや、遙かに鶏鳴〔けいめい〕聞こえ、梵鐘〔ぼんしょう〕の音につれ散会したり」と。
 まことに美しい絵巻の様な有様で、不思議とも、有難いとも、凡俗の私共によく窺〔うかが〕い知ることの出来ない、尊師の御境地であります。
 古来、偉大な宗教を開かれた、
釈尊〔しゃくそん〕、イエス弘法大師といった大聖者には幾多の神秘な物語がまつわり伝わっておりますが、神から離れることの遙かに遠い現代の大部分の人々には、すべて信じ難いものとして斥〔しりぞ〕けられ勝ちであります。今また、大玄尊師にかかわる数々の神秘現象についても、人々は同じ様に恐らく信じる事をしないでありましょう。
 現代の人々は、「科学的」とか「合理的」という言葉を充分吟味することなく使い、神秘的現象や奇蹟的事象を、それをよく理解しようと努める前に、「非科学的」とか「不合理」と一言の下に否定し去る傾向があります。しかし考えて見れば、この大宇宙の森羅万象〔しんらばんしょう〕ことごとくが神秘でないものはなく、私達自分自身すら神秘そのものであります。科学はその神秘の極〔ご〕く一端を少しづつ解明してくれているに過ぎず、未だ解き得ない謎〔なぞ〕は無数であり、私達に秘〔かく〕された未知の世界は無限であります。
 人々は迷信だ不合理だと嘲笑〔あざわら〕う前に、まず謙虚〔けんきょ〕にこの事を知って、神秘な現象や新しい奇蹟的事実に虚心に対処してゆくべきであります。
 釈尊が
阿含〔あごん〕、華厳〔けごん〕、方等〔ほうとう〕、般若〔はんにゃ〕の諸経に次いで最後に説かれたのが法華経〔ほけきょう〕でありますが、このお経には数多くの神秘な物語が含まれています、釈尊は、この法華経に示されている様な神秘世界(秘密世界)の教え(即ち密教)こそ、末法の世に人々を救うべき正法であると予言せられているのでありますが、大元密教〔だいげんみっきょう〕こそはまさしくこの予言通り、この末法の世を救うに相応〔ふさわ〕しい教えとして出現したのであります。
 即ち、人々は疑い深く、神仏を真に信仰する人はまことに少なく、また信仰するという人といえども、正しい信仰を知らない場合が多いのです。
 この様な時、この教えによって始められた「正座観法行」なる修行により、こうした人々も、自分自身の体験を通して事実を確かめながら、いつか自ら神秘の数々に触れ、神の実在を確信出来て、神を正しく信仰出来る様になるのであります。のみならず、神を信じ神を知り得ることにより、真の己れを知り、己れの進むべき道を覚〔さと〕り、安心立命の境地に到るのであります。
 その間、心身の機能が改善され、身病心患より解放され、さらには所願成就〔しょがんじょうじゅ〕、生業繁栄〔せいぎょうはんえい〕等とその功徳〔くどく〕は測り知れないものがありますが、この教えの目標とするところは、あくまで、御利益〔ごりやく〕主義信仰を排除し、人々がそれぞれ神の子の自覚に目覚め、人間としての完成を計り、真理を悟得して
神人一体の境地に到ることであります。
 かくて最終的には、地上に神の国が成就され、真に平和と繁栄の人類社会が築〔きず〕かれることを願うのであります。