信仰


 一般に「信仰」というと、お宮やお寺に詣り、或は教会に通い、或は行者や呪術師〔じゅじゅつし〕の門を叩き、手を合わせて神仏を拝んだり、ノリトやお経、聖書を読み、讃美歌を歌い、或は唱題や念仏を唱える事だと、考えている人が多く、しかも、それにより病気平癒や商売繁昌等の現世利益を得ようという目的の人が大部分の様ですが、こうした間違った信仰のため、どれだけ世の人々が迷いを深めている事か、まことに情ない実情であります。
 真の「
信仰」とは、
 「神の教えを正しく認識してこれを行なう誓いである」
という定義の許〔もと〕に、まづ神を知り、神の教えを知り、そしてこの神の教えを正しく認識して行なうことであります。
 「神の教え」とは一口にいいますと「啓示」であります。しかし、この啓示とは、神懸〔かみがか〕り的な霊媒〔れいばい〕現象的なものをいうのではありません。森羅万象一切が神の教えでないものはありません。眼で見るもの、耳で聞くもの、即ち、五感六識に触れるもの、ことごとくが神の教えであります。いわば私達は神の教えの中に生きているのであります。
 しかし、私達にはその神の教えを正しく認識するだけの力と智が乏しいのです。そこで正しく認識すべく努力すると共に、正しく認識させてくれる様願うのであります。そして、正しいものと、正しくないものをふり分け、正しいことは行ない、正しくないことは行なわないと、己れの心を通じて誓うことが「信仰」であります。この場合、如何〔いか〕にして神を知り、神の教えを正しく知るかが問題ですが、まず良い師を得ることです。その師の指導の許に修行すること、それ以外にありません。
 世間には、水をかぶり滝に打たれ、或は、断食や色々の苦行を重ね、或は読経三昧の行をして啓示を求める人がいますが、そんな事で正しい啓示が得られることは稀であります。
 大元密教は「神自らの教え」でありますから、大神に帰依〔きえ〕する事によって神の教えを知ることが出来、これを正しく判断する智慧、即ち悟りを開くことによって信仰の目的を達し、その姿その儘で神の境地を自分の境地とすることが出来るようになるのであります。

(イ) 正しい信仰
 世間には、実にいろいろな信仰をしている人がありますが、その信仰が果たして正しいかどうかとなるとなかなか問題であります。
 中には、その信仰のため、ますます日常生活に迷いを作り、揚句〔あげく〕の果ては判断に苦しんで易者〔えきしゃ〕や行者〔ぎょうじゃ〕の門を叩くといった人も少なくありません。これは正しい信仰を持たない証拠です。
 また、ただ、病気が治ればよい、商売が儲かればよい、といった様な、醜〔みにく〕い我欲からする信仰も正しい信仰とはいえません。
 また、生業をおろそかにし、朝から晩までお題目〔だいもく〕を唱え、念仏三昧に暮れ、お経と首ったけと、いったようなことも間違いであります。
 或はまた、形式に執〔とら〕われ、他を傷つけて平気でいる様なことも正しい信仰ではありません。
 正しい信仰とは、まず自分を造り上げることから始めるべきです。そして自分の境地が高まり清められ、自分自身が自覚し、そして人がこれを認めてくれる様になることです。まず自分が救われることであり、また他人に良い影響〔えいきょう〕を及ぼす信仰でなければなりません。結論的には、自分も他人も共に救われ、人のため、世のためにプラスする信仰が正しい信仰といえるのです。
 世の多くの宗教が真の神の道を知らずに千遍一律、因縁〔いんねん〕がどうの、供養〔くよう〕がどうの、布施〔ふせ〕がどうの、と金取り主義の営利企業体を夢見る限り世の中は明るくなりません。
 この様な宗教は世間の人々を迷わし毒するもので、正しい教えによる正しい信仰を身につけて、各人が自分自身を救う様にしなければなりません。
 末法時代というべき現今、密教即「神自らの教え」が唯一の正法(正しい教え)であり、正しい信仰はこの正しい教えからのみ現われる事を悟らねばなりません。

(ロ) 信仰の対象(目標)
 神の教えを正しく認識して行なう誓いが信仰でありますから、その誓う相手即ち目標がなければなりません。
 大元密教では、根本神である大元太宗大神〔だいげんたいそうおおがみ〕を信仰の対象〔たいしょう〕(目標)としております。即ち、「大元太宗大神」は大宇宙を形成する根本力であり、森羅万象諸々の霊体の総合体である大元霊体であり、大自在力を具備した全智全能の「大御神〔おおみかみ〕」でありまして、万霊の神格化した神々仏菩薩は各々その眷属を引き連〔つ〕れ、自己の位に応じまた分野に従って、「大御神」に奉仕しておりますから、この「大御神」を拝めば一切の神仏に通ずるのであります。
 さきに「神と人」の項で密教教主の御立場について簡単に触れましたが「密教」が「密教」たり得る絶対条件は、教主の御存在に関わるものです。教主の御存在なくして「密教」は成り立たないものです。即ち根本大神の持っているすべてのものを身につけて、人としてこの世に顕われたのが
密教教主でありますから、教主の御神格は根本神と同格であります。それ故、信仰の対象が「大御神」であるということは、とりもなおさず教主尊師に帰依〔きえ〕し、頂礼〔ちょうらい〕することに他なりません。
 ちなみに、密教における教主は、衆生はもとより、神々、仏菩薩およびその諸眷属、並びに諸霊をも教化済度の対象とするものであります。即ち密教教主は、一切を教え導き、一切を支配する立場にあって、本来は「教王〔きょうおう〕」なる語を用うべき御存在であります。それ故、人間教主尊師に帰命〔きみょう〕することが、即ち大神教祖神に帰命することになるのです。

(ハ) 信仰の実践
 正しい信仰を知り、信仰の対象が決まれば、信仰の実践は自づから簡単であります。
 まず、良師に遭り遇い、その師に全てを委ねて従うことであります。即ち師の命に従うことであり、師の御教えを細大漏らさず我が身に取り入れるべく精進努力することであります。
 それには心から師に仕え、心から師を敬い、心から師に従うことによって、師の薫陶をうける事で、それにより知らぬ間に実践の効果があがるのであります。
 信仰する人にとって大切な原則は、一に修行、二に思惟〔しい〕、三に忍従〔にんじゅう〕であります。
 修行の手段方法は、民族の嗜好〔しこう〕によっても相違し、また習慣によっても異なりますが、その目的とするところは何れも試練であり、錬磨であるに他なりません。
 この試練乃至錬磨の結果が良い方向に向かえばよいのですが、中にはその内容が人間社会にマイナスする様なこともありますから、信仰し実践する人には特に注意する必要があります。
 この様に色々な方法と色々な角度から修行するのでありますが、独りでする修行は良い結果を得ることが稀〔まれ〕でありますから、良い師の許で修行するのが最上であります。
 そうしてこの修行によって生じた現象をよく考え、よく味わい、その上で正しいと思った場合、一路前進することによって、実践行の目的達成が出来るのであります。