人間


 前にも述べましたように、地球上の人間の始まりは、人類学者にも生物学者にも誰にも解明出来る事ではありません。しかし、神のお示しによれば、地球上に高等動物の胎頭〔たいとう〕し始めた時代に、まず母胎〔ぼたい〕なるべき雌〔メス〕的生物が大自然の動きによって地上に発生し、それに聖なる精霊気〔せいれいき〕が宿って、ここに人類の祖先が出現したとしております。そしてその人間像が肉体であり、精霊気が霊体であり、肉体と霊体が表裏一体となって活動しながら、大自然の法則によって肉体は成長し老いて死に到ります。この場合、死によって肉体なる人間像は物質として大自然に還元しますが、精霊気である霊体は滅することなく大自然に存在し、ある期間待機して後、再び人間界に再生し、色々な経験を積むべく人間修行を繰り返すのであります。この様にして、大自然を輪廻〔りんね〕し、人間界に転生〔てんしょう〕することを幾十百千万度か繰り返し、人間としての経験を集積し修行し、その使命と目的のために活動を繰り広げて行くのであります。
 そこで、人間は人間界で色々の経験を積むと同時に、霊界に入っては神秘不可思議な大自然の現象を体験して行く中に、人格霊格共に向上し、人間界において多くの人々を導き徳を積み、人々から敬われて神として祀〔まつ〕られ、霊界においても尊ばれて神格を備えるに到り、かくして
霊界から上昇して神界にはいるのであります。
 この神となられた方々も、さらに何回何十回となく人間界に転生降臨し、多くの真理を説き、且つ秘密世界の神秘を人間界に示現し賜いて人間界を啓蒙〔けいもう〕し、人間界の働きを洞察〔どうさつ〕して神界に帰られる、といったような循環〔じゅんかん〕をある期間続けるのです。そしてその使命を完全に果たし終えた時、循環の終止符を打ち、輪廻転生を脱し「根本神」の中に
還滅〔かんめつ〕するのであります。

(イ)輪廻転生〔りんねてんしょう〕
 
輪廻転生の原則を時間的に見た場合、大体壱千日(約三年)を一つの契機〔けいき〕として転生するとされておりますが、勿論、人間界における活動の結実によって条件が違ってきます。即ち使命を果たしたかどうかによって、条件が変わってくるのです。或は早くなり或は遅くなりします。また人間界における人間の使命の他に、霊自体の迷いという事も関係して来ますので、死後の動きは一様ではありません。
 なお、転生の原則として
 1、人間はあくまで人間界に転生するのであって、動物に生まれ変ったり、動物が人間に生まれ変るという事はありません。
 2、男は男、女は女で、男が女に、或は女が男に生まれ変る事もありません。
 3、霊界に人種の区別はなく、従って同一人種に転生するとは限りません。むしろ、経験を重ねる中に転生の範囲が拡がって行き、色々の国々、色々の人種に転生して行くのです。
(ロ)
使命
 人間は生まれては死に、死んでは生まれ変る度毎に、何かを経験し、経験したことを生かすべく約束づけられているのです。即ちこれまでに集積した経験をして、大自然界の動きと調和させて、人間界に貢献する様に自づから役付けされております。この役割を使命といい、この役割を果たすべく、人間は色々に活動を続けているのですが、実際には、大部分の人が自分の真の役割が何であるかを知らずして、道ならぬ道を歩み、迷いから業を作り、その業によって苦しみ、使命達成の妨〔さまた〕げとなる自分の行ないに気づかずにいるのです。
 この様にして気づかなければ気づかないなりに一生を終えて、また次の世に持ち越して行くことになり、与えられた使命を果たすまで幾回となく転生を繰り返し、一つの使命を果たし得て始めて、次の使命に移ることになります。
 この様に人間各々誰しも大なり小なりの使命を持って生まれて来ているのに、その使命を知らず果たすことをしないで一生を終わる人の多いのは、結局、真の自分自身を知らないからであります。自分を知らないから自分の行くべき道を知らないのです。
 そこで、自分を知り、自分の進路を知るには、正しい信仰を持ち、神を知り、神の教えを受ける他ないのであります。即ち「神自らの教え」を受け「正座観法行」を修することによって、始めてこれが可能になるのであります。
 かくて、自分の果たすべき使命を知り得たら、後は自らを正しく持〔じ〕し、水の低きに流れる如く、自然そのままに歩んで行くことです。人間の小さなはからいを捨て、一切を大自然の動きに任〔ま〕かすという境地で、即ち大神に帰依〔きえ〕して日常生活を行なうとすれば、使命の達成されること間違いないのであります。
(ハ)人格と神格
 人間としての価値即ち良さを備えることを人格といいます。本来、人間は皆その人としての良さを備えているべきでありますが、人間としての使命に目覚めないため、数多くの輪廻転生を繰り返しても、なお迷いから目覚めることが出来ず、従って、人間としての良さを失い、修羅〔しゅら〕界、畜生〔ちくしょう〕界、餓鬼〔がき〕界、地獄界といった四悪道の境地に陥り、人の姿はしていても「人でなし」の存在になり下がっている人が多いのであります。この様な人には人格というものは認められません。
 これと反対に自分の使命に目覚め、人間としての良さを生かすべく、悟りの境地を目標に修行する人は、人としての格即ち価値を備えることになり、人格を得るのであります。
 この様に人間として価値ある働きをし、人間界を終え神界に行くことを繰り返して行くうちに、神界に引き上げられて、人間界において人格を備えた様に、神界においても、その存在が認められ、価値づけられ、格付けされる様になります。これを神格といい神となった証〔あかし〕であります。この様な神々を特に人格神と称し、自然神と区別します。
(ニ)人・霊・神
 霊とは、生命力の有する経験の集積体をいいます。
は人間の活動源であり、霊の働きによって人間は生きて活動出来るのであります。従って原則として人と霊は一体といえます。人の在るところに霊が存在し、霊のないところに人は存在しません。しかし、全体的には、人と霊は同数ではありません。生霊(生きた人間として肉体を持って活動している霊)と死霊(肉体を持っていない人間の霊)というのもこれによるのでありますが、霊界としては一つの世界であって別に区別がある訳ではありません。
 そこで生きている人間においては、心と肉体が相関して一つになって働いているのですが、霊はその心の支配者の様なもので、霊の波長を心が受入れて肉体を動かすのであります。そしてその活動によって経験した事は心を通じ霊(霊体)の中にすべて集積されるのであります。従って死によって霊が肉体から離れた場合にも、その一生を通じての体験の記憶は霊の中に残り、幾十百千度の過去世の体験の記憶と一つの塊〔かたまり〕になるのであります。これを霊魂とも霊体とも称し、永遠に生き通しの実在といえます。
 霊はさらに神の指導によって活動しているのでありますから、人はそれを自覚するとしないとにかかわらず、誰しも己れの本体ともいうべき霊(霊体)を通して神の指導を受けているのであります。
 しかるに、神の指導を受けている筈の人間界にどうしてこう、現実世界に見られる様に、狂いが多く、人々の迷いが深いのでしょうか。
 それは霊を放送局、心をラジオの受信機の様なものに考えて見て頂ければ容易に判〔わか〕る事だと思います。私達の心という受信機の機能が不完全であるため、霊という放送局から発せられる電波を、そのまま百パーセント受入れることが出来ず、そこに当然、ズレなり狂いが生じます。さらにその上、霊自身も過去幾百千回の人生体験を重ねて来た間に、数々の過ちや罪穢〔つみけがれ〕を積みこんで汚れきっているのが普通で、そうした霊の支配をうける心が従ってまた正常に働かないのも当たり前です。従って、折角霊が神の指導を受けていても、人間である私達の心は必ずしもその指導通りに働かず、そこに間違いや狂いが生じ易いのであります。そして、こうした各人の心の偏〔かたよ〕りや狂いが、互いに働き合い、影響し合って、現在の人間世界の様な、一寸やそっとで救い難い程狂った世界を作り上げたといえます。
 ここに、始めて「正座観法行」を修することにより、人の身心の機能がまず改善されると共に、霊体自身の宿業〔しゅくごう〕ともいうべき罪穢〔つみけがれ〕が洗い浄められて行きますから、霊と心が文字通り表裏一体となって働く様になり、従って神の指導がまた霊体を通して人にそのまま正しく伝わり、ついには人の心が指導する神と一つになって活動する様になるのも不思議ではありません。
(ホ)生と死
 私達人間は過去において幾回となく生まれ変り死に変りして今日に至っているので、生も死もまたそれだけ体験して来ている事は、これまでの事でお分りの事と思います。ただ、私共がこの世に生まれて来る時、新しい人生修行の邪魔〔じゃま〕になるというためでしょうか、過去世の記憶との通路が一時閉ざされているので、普通には前世の事を憶〔おも〕い出す事が出来ないのです。最近では催眠術によって前世の記憶を引っぱり出す試みが方々でなされている様ですが、本教では「正座観法行」を修している間に、自分の前世の体験の一端を口で語らされたり、字〔じ〕で書かされたりした人も少なくありません。
 まず、生は生殖的本能から雌雄の結合によって生ずるのでありますが、実際には、母親の胎内に宿って三カ月位して、
霊の管理支配を受ける様になった時に始まります。それ故、受胎後三カ月以内は単に母親の胎内の肉塊に過ぎず、霊的には別個体をなしていません。
 この管理者である霊が肉体から離れることが死であり、死によって肉体は土に還り滅しますが、霊は滅することなく霊界に残ります。
 普通、私達は新しい生を慶〔よろこ〕び祝い、人の死を悲しみ哀悼〔あいとう〕しますが、己れの死となると、ただ恐ろしいもの、醜〔みにく〕いもの、苦しいものとして、これを嫌い恐れ、口にする事すら不吉とします。
 しかし、生も死も、その実相と意義を真に知る人はまことに稀であります。
 「神自らの教え」なるこの大元密教により、人は神によって、何かの使命を果たすべく約束づけられて、この世に生を受けている事が、明らかに示されたのでありますが、多くの人は神を知ることもなく、従って己れの使命を自覚する事もなく、徒(いたづ)らに迷い多い一生を送って、使命を果たし得ずして死んで行くのであります。そして、その間に幾多の心患や身病に心身を蝕〔むしば〕まれ、苦悩と不安と恐怖の中に死を迎え、その死に臨んでは虚空〔こくう〕をつかむ様な形相を呈し、醜い終焉〔しゅうえん〕の場を作り出し、地獄行きの相を現実において示すのであります。
 しかし、本来
は決してこの様に恐いものでもなければ、醜いものでもありません。正しい信仰を持ち、神を知り得た人にとっては、死は美しく楽しい世界への旅立ちに過ぎず、事実、多勢の神々の出迎えを受けて、心安らかに安楽世界へ引取られて行くのであります。人が神の子なる自覚に目覚め、人間界において清浄な生活をし、己れを正しく持してゆけば、神の子として神の御許に行けるのは当然であります。