涅槃(ねはん)(安楽世界)


 仏教に「涅槃に入る」という言葉があります。死んでから行く世界だと思っている人が多い様ですが、「涅槃」は死とは必ずしも関係がありません。
 自我意識の無い境地を無我といいますが、この
無我の境地に入って静かに微動だにしない姿を定〔じょう〕といいます。この定に入った時の境地は口や筆ではいい表せない程、静にして定であり、定にして静であり、世俗から離れて欲も何もなく、自分のことも念頭になく、しかも一切を観じながら、周囲のすべてが気にならない、といった心の静けさをいうのです。これをまた禅定ともいいます。
 この禅定に入ってさらに
悟りを開いた境地、これを涅槃といい、また安楽世界ともいいます。
 この禅定にしろ、涅槃にしろ、欲から離れ、自我意識を捨てなければ、入れるものではありません。無私、無欲、無我の境地を経〔へ〕て始めて至るものであります。
 昔から数知れない修行者が、この境地を求めて、或は難行苦行を重ね、或は坐禅〔ざぜん〕三昧〔さんまい〕に耽〔ふけ〕り、一生をかけてなお、禅定の境地の一端すら窺〔うかが〕い知りえた人は稀でありました。まして涅槃に入ることは至難中の至難といってよかったのであります。
 しかるに、「神自らの教え」なる大元密教においては、正座観法行を修することにより、自然に己れの努力によらずして、雑念を去り無我の境地に入って行けるので、禅定に入る事も左程難しい事ではありません。のみならず、さらに、この様に我欲の無い浄らかな心になって始めて神の御教えが正しく受けられる様になり、真理を悟得して、その身そのまま、生きながらにして涅槃〔安楽世界〕に入る事すら出来る様になります。これを「
即身成仏」といいます。
 この時、人は一切の我欲我執を離れ得て、最早、心に何の不安も恐れも悩みも苦しみもなく、明日を思い煩うこともなく、その日その時、あるがままを神に感謝し喜ぶことが出来ます。そして、神を知り、己れを知り得た大安心の上に、己れのこの世にて果たすべき使命を覚って、
安心立命の境地に住し、人々の怖れるすら、ただ美しく楽しいものとして、安らかな気持で迎えられる様になるのであります。
 かくて、最終的には、宇宙の根源にして、大自然力なる最深至高の大御神「大元太宗大神〔だいげんたいそうおおがみ〕」に完全帰依〔きえ〕し、宇宙一切の真理を正しく認識して是を行ない、神は我れ、我れは神なる森厳微妙の入我我入即ち「
神人一体」の境地に到達する事が出来て、神秘世界の大光明を得られる様になります。
 これが修行の最終目標であり、この「神自らの教え」を受ける事によって、時間の差こそあれ、何人にも可能なのであります。